オタクの聖地・秋葉原にお稲荷様が多い謎を紐解く。そこから見える歴史とは?

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電気街として、オタクの聖地として、メイドカフェの街として。国内はもちろん海外からも観光客の訪れる秋葉原。しかし、当然ながら江戸の昔からこういう街だったわけではありません。では、江戸時代の秋葉原はどのような姿だったのか?実は、秋葉原にはお稲荷様が多いんです。秋葉原になぜお稲荷様が多いのか。アキバのお稲荷様に教えてもらいましょう。

知られてないけど、秋葉原にはお稲荷様がいっぱい!

「オタクの聖地」として、今や日本国内だけでなく世界にまでその名をとどろかせる秋葉原。町中にアニメのイラストが飾られ、漫画を専門とする本屋やメイド喫茶などが立ち並ぶ街並みは、まるで一つの遊園地の中にいるかのような感覚に陥ります。そんな秋葉原の町を歩くと、目につくのはアニメキャラやメイドさんだけではありません。

秋葉原の町には、不思議とお稲荷様が多いのです。

神田川にかかる昌平橋の近くには、講武稲荷神社というお稲荷様があります。
もともとは長昌寺というお寺にありましたが、安政4年(1857年)にこの地にやってきました。

小さな小さなお稲荷さんがいました。気づかない方もいるかも?
ビルとビルの隙間のような通路にあるお稲荷様は、花房神社。

秋葉原のメインストリート、中央通りから路地に入り、さらにビルとビルの間の通路、と呼ぶにはかなり狭い道を進むとようやく花房神社にたどり着けます。

陽の光がほとんど差し込まず、表通りから見ている限りは、ビルの裏に神社があるなんて絶対にわからない場所にあるのです。花房神社にも小さなキツネの石像が二体祀られています。この神社もお稲荷様なのです。

お稲荷様は、いわゆる「電気街」だけでなく、その反対側、秋葉原の東側でも見つけられます。

神田佐久間町にある和泉小学校。
その隣にある広い公園のさらに隣に、「金綱稲荷」なるお稲荷様があります。飛脚が開祖と言われ、幾重にも重なる鳥居は京都の伏見稲荷を彷彿とさせます。

そのすぐ近くの佐久間公園の中にも「草分神社」があります。こちらもまたお稲荷様。もともとは武家屋敷の中にあったそうです。

神田川を挟んだ反対側にも神社があります。
神田川沿いにある柳森神社にも、キツネが祀られていて、やっぱりお稲荷様でした。しかし、タヌキの石像も祀られています。

世にも珍しいタヌキの神社……。

このように、秋葉原にはお稲荷様がいっぱいいます。
もしかしたら、ビルの屋上にひっそりと祀られているものもあるかもしれません。また、今は残っていないだけで、かつてはもっとあったのかもしれません。

しかし、なんでお稲荷様が秋葉原にこんなにも残っているのでしょうか。
そして、なぜお稲荷様しか残らなかったのでしょうか。もっと八幡神社など、ほかの神社があってもおかしくないのに。

謎を解き明かすため、そもそもお稲荷様とはどういう神様なのかを見ていきましょう。

お稲荷様って、どんな神様?

お稲荷様の発祥は意外にも、インドです。
インドの「荼枳尼天」(だきにてん)と呼ばれる神様がお稲荷様のもととなりました。荼枳尼天はジャッカルを使いとしています。やがて、インドから日本に仏教が伝わったように、この荼枳尼天も日本へとやってきます。しかし、この時、一つの問題が生じました。

日本にジャッカルなどいない! (ガーン!)
「荼枳尼天はジャッカルを使いとしています」
と言っても、昔の日本人は誰もジャッカルがなんなのか知らないのです。

そこで、同じイヌ科でジャッカルになんとなく似てないこともないキツネが、日本版荼枳尼天ことお稲荷様の使いとして選ばれました。こうして、私たちがよく知るお稲荷様の姿が出来上がったのです。

町中にも田んぼの中にもいらっしゃるお稲荷様。
はたして、このお稲荷様にはどのようなご利益があるのでしょうか。

お稲荷様は農業の神様と言われています。一方で、商売繁盛な神様という側面も持ちます。そのため、都会でも田舎でもお稲荷さんをよく見かけるのです。

神田川沿いに多い、お稲荷様の秘密

秋葉原のお稲荷様ですが、どれも不思議と、神田川の近くにあるのです。

柳森神社にいたっては神田川に面しています。最も川から離れている花房神社も神田川から600m以内に収まります。秋葉原のお稲荷様は、神田川沿いに分布しているのです。

もし、お稲荷様が水の神様だというのであれば、川沿いに多く作られ、広く人々に親しまれ、今日まで残っていることにも納得ができます。しかし、お稲荷様は本来、水や川とは関係のない神様のはずなのです。

いったい、なぜ秋葉原のお稲荷様は川沿いに多く残っているのでしょうか。

お稲荷様から紐解く、秋葉原の歴史

まず、秋葉原のお稲荷様は、農業と商売、どちらの神様なのか、ということから考えてみます。
秋葉原のお稲荷様は江戸時代につくられたものが多く、その頃は当然、江戸の町並みが出来上がっていたわけですから、農業の神として祀られていたとは考えにくいです。商売繁盛を願って祀られ、商売繁盛を願う人たちに大切にされてきたと考えるべきでしょう。

では、どのような商売の人たちが、秋葉原のお稲荷様を大事にしてきたのでしょうか。秋葉原で商売をしていて、なおかつ、神田川に深いかかわりを持つ人々……。

もしや、日常的に川を商売の場所として利用してきた人たちではないのか。
そう考えて調べてみると、興味深いことがわかりました。

秋葉原東口、ちょうど草分稲荷があった神田佐久間町は、材木商が神田川沿いに多く並ぶ街として栄えていたというのです。今のようにトラックによる運搬ができなかった時代、材木のような重たいものを運ぶ方法として、川を使った運搬が利用されてきました。

川沿いに店を構え、川を商売の場所として日常的に使ってきた材木商の人たち。彼らこそが、秋葉原のお稲荷様信仰の担い手だったのではないでしょうか。

今、秋葉原の町はかつての材木の町の面影を全く残していません。
駅の西側は言わずと知れた電気街、オタクの聖地。一方、駅の東側、材木商が最も多かったと言われる地域でさえ、ビルが立ち並び、昔ながらの材木商は全くと言っていいほど残っていません。古い家もあまり残っていないので、町の人々も、秋葉原のかつての顔などほとんど知らないでしょう。ただ公園にひっそりと、「この街はかつて材木商が多い町でした」と歴史を伝える立札が立っているのみです。

江戸から明治、戦争や高度経済成長期を越えて現代へと、歴史が進むにつれ秋葉原の町は大きく様変わりしました。戦後の復興とともに電気街の町として生まれ変わり、やがて、オタクの聖地となりました。一方で、経済発展とともに木材が使用されることも少なくなり、いつしか秋葉原の町から材木商は姿を消していきました。

しかし、お稲荷様は残りました。
それは、材木商の人たちが商売繁盛を願い、川沿いのお稲荷様たちを大切にしてきたからではないでしょうか。
街の形が大いに変わり、材木商たちが街から姿を消しても、その人たちが大切にしてきたお稲荷様だけは残ったのです。

もちろん、それぞれのお稲荷様は、建てられた時代も、その理由も、それぞれ違います。しかし、そのお稲荷様と大切にしている人たちがいたからこそ、後世まで残り続けたはずです。

こちらは、秋葉原神社。人形が並んでいます。
今の時代の秋葉原を表している、わかりやすい神社です。隣で浮浪者が寝転んでいました。これも秋葉原らしい?

キツネが伝える歴史の残り香

街をふらりと歩いていると、小さな神社をよく見かけます。
決して観光客が来るような神社ではなく、地元の人すら存在を忘れているような神社です。それら一つ一つを見ただけでは、その町の歴史はわかりません。

しかし、点在する神社を線でつないでみると、思わぬ街の歴史が見えてきます。
「なぜ、この一帯にこれが集まっているのだろう」
「なぜ、これが現代まで残っているのだろう」
そんなことを考え始めると、その町の人たちがどれだけその神社を大切にしてきたか、何を願ってその神社を訪れていたかが見えてきます。

秋葉原のお稲荷様たちは、今も神田川沿いにあり続けることで、かつてこの町の人々がどのように暮らしていたかを、そっと教えてくれているのです。

有名な寺社仏閣や、偉人の足跡をたどるだけが歴史探索ではありません。町中にあるお稲荷様をつぶさに見ていくことで、今の姿とは全然違う、その町の歴史に触れることができる。その町の人が何を思い、何を願い、そこで暮らしていたのか。そんなことに思いを馳せてみるのも、また歴史探索の一つです。


自由堂ノック:フリーライター。グルメ記事や歴史の記事など幅広く執筆している。
日本民俗学を大学で専攻し、船で地球一周した後、「次は日本だ!」と地元埼玉を中心に野仏からその町の歴史を探る研究をしている。

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